何かを見る時どこで見るか?
と聞かれたら
それは目です
と、答えますね
正解なんですが
でも正確ではないという話です
目は実際は単なるレンズであって
光を集める器官でしかない
単なる集光器です
その情報が神経をつたい
脳に到達し
そこで映像化される
その時点で「見た」となります
だから理屈っぽく言えば
脳で見ているのです
それによって何が起きるか
脳が見ている、と考えると
意味が全く違ってきます
脳は様々な記憶の集合体ですから
過去の記憶
に今見ているものは影響を受ける
ということになります
だから初めて見たものと
何十回も見たものは
違って見えます
初めてだと新鮮さという感情が
加わって見え方が変わり
慣れているとその裏にあるものや
それまでの歴史が思い出され
むしろそっちが気になりますね
だから見ていると言っても
実際脳に映る映像は
人によって全く違う
ということになるのです
だから信じる人には石が金にも見え
信じない人には金がガラクタに見える
ということです
だから私は見た、と誰か言っても
それはその人のフィルターにかかったもの
ということです
人はものをその人が見たいように見るし
理解したいように理解する
信じている信念に基づき感じる
となりますね
こんにちは
越谷のツボ職人 北村(鹿児島出身)です
今日は 話は作られる について
人は見たいように見
聞きたいように聞く
ということは
話はすべてその人が作ったもの
と考えることも出来ます
全くの曇りなき眼で見る
ということは多分幼児以外無理です
その人の文化歴史経験知識
という添加物が加わっているのです
一言で言えば「打算」かもしれません
自分に都合のいいように見て
都合のいいように話すのです
だから鉛筆がコロンと転がったのを見ても
その見方は人の数だけあるのです
鉛筆の木を感じる人もいれば
メーカーを感じる人もいる
勉強を思い出す人もいれば
鉛筆を削りたいと思う人もいる
感想は無限です
だからなんでも自信を持って感じればいいし
人の意見に流される必要はありません
結局みんな違うのですから
みんな一つになって頑張ろう!
とリーダーが叫んでも
みんな違う事を感じているのです
協力することは大事ですが
納得いかないものを
むりやり信じる必要もないのです
逆に
人を説得したければ
その人の文化歴史経験知識や信念
を加味しながら話していく
ということになります
そこを無視したら絶対にうまく行きません
相手には違和感が残るだけです
なんせ話し手の価値観で話していますから
価値観を理解されれば
人は 分かってくれた!
と感じます
話は常に作られるし
だれが話すかが重要だし
どう聞けるかも大事
話に真の真実などはなく
それぞれの信念が大事ということです
信念によって話は皆変わります
そこは大変だと思うのでなく
うまく使うように考えるべきですね
話はどう作るか
どう盛って
どう削り取るか
それはアナタ次第ですね
くわしくはげんきくんまで